『組屋六郎左衛門と疱瘡神』〜小浜妖怪物語vol.2〜
みなさんは「北前船」をご存知でしょうか?
北前船とは、日本海を縦断し、北海道と畿内を結んだ商船のことです。江戸時代から明治時代にかけて、小浜は北前船の往来によって、各地から人や物が集まるにぎやかな港町として栄えました。
今回紹介するのは、そんな港町・小浜にふさわしい妖怪譚です。
船に乗ってきた疱瘡神
小浜のまちに「組屋六郎左衛門(くみやろくろうざえもん)」(以下、六郎左衛門)という北前船の豪商がいました。
永禄年間(1558-1570年)、組屋の船が北国から一人の老人を乗せて小浜へと帰ってきました。老人は、しばらく六郎左衛門の家に暮らしていましたが、あるとき「私は疱瘡の神である。お世話になったお礼に、六郎左衛門に祈れば、疱瘡は軽くすみ、治る」と言って旅立ちました。
六郎左衛門は、その姿を絵に描き、家の玄関に貼って疱瘡除けとしたと伝えられています(注1)。

ここでいう疱瘡(ほうそう)とは、現代では主に天然痘と呼ばれる病気を指します。かつて世界各地で猛威を振るい、日本でも江戸時代を通じて何度も流行しました。
若狭の人々にとっても疱瘡は身近な病であったようで、江戸時代の地誌『拾椎雑話(しゅうすいざつわ)』にも疱瘡の流行を伝える記述がみられます(注3)。

ところで疱瘡は、現代の私たちが新型コロナウイルスの流行で経験したように、人の移動とともに広がる病でした。港町・小浜は、海路と陸路が交差する交通の要衝であり、人だけでなく病もまた運ばれてくる土地だったのです。
この物語の背景には、小浜が海上交通と密接に結びついた場所であったという土地柄が見えてきます。疱瘡神は、港町・小浜の性格を映し出す鏡のような存在だったのかもしれません。
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妖怪を「おもてなし」する!?
この物語には、ひとつ興味深い点があります。
なぜ六郎左衛門は、得体のしれない老人を丁重にもてなし、しばらく自宅に住まわせたのでしょうか。
この行為の背景には、日本人のもつ伝統的な思想が関わっていると考えられます。日本には「おもてなし」という言葉がありますが、かつては人だけでなく、妖怪もまたもてなされる存在でした。
例えば古代日本では、疫病の流行や異国から使者が訪れた際などに、疫病の原因と考えられた妖怪を鎮めるため、主要な街道が集まる交通の結節点や境で「道饗祭(みちあえのまつり)」と呼ばれる祭礼を行っていました(注4)。この祭礼は、妖怪を山や海の食物、酒でもてなすことで、機嫌よく立ち去ってもらおうとするものであったと考えられています(注5)。

現代の私たちは、港や空港で検疫を行い、ワクチンを開発することで病の侵入を未然に防ごうとします。一方、医療が未発達だった時代の人々にとって、病への対処法のひとつは、その原因とみなされた存在をもてなし、鎮めることでした。
ここでの「もてなし」は単なる接待ではありません。食物や酒を供えることで、妖怪を祀り上げる行為でした。私たちの先祖は、妖怪を祀ることで人間にとって好ましい存在、すなわち「神」への転換が可能であると考えていたのです(注6)。
疱瘡神は六郎左衛門による「もてなし」を受けたことで、疫病をもたらす妖怪から、疫を退ける神へと姿を変えました。この物語は、人や物、そして疫病の神さえも行き交う港町だからこそ生まれた、まさに小浜らしい妖怪譚といえるのではないでしょうか。
参考文献
注1 ①法本義弘編(1974)『拾椎雑話・稚狭考』福井県郷土誌懇談会、198-199頁。
②現代語訳されたものは、杉原丈夫編(1970)『越前若狭の伝説』、松見文庫、673‐674頁を参照。
注2 小浜市史編纂委員会編(1971)『小浜市史 第1巻』(史料編)、小浜市、545頁。
注3 例えば、延享三(1746)年、宝暦二(1752)年に小浜でも疱瘡が流行し多数の死者がでたこと、それによって疱瘡除けの御守りが広く出回った記述などが確認できる(前掲注1 ①304-305頁)。
注4 高橋昌明(1992)『酒呑童子の誕生』、中央公論社、10‐22頁。
注5 佐々木高弘(2014)『神話の風景』、古今書院、193‐198頁。
注6 小松和彦(2007)『妖怪学新考』、洋泉社、39‐50頁。

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